酔古堂剣掃 / 集倩・松風水月の清華
何為聲色俱清?曰:松風水月,未足比其清華。何為神情俱徹?曰:仙露明珠,詎能方其朗潤。
新字:何為声色倶清?曰:松風水月,未足比其清華。何為神情倶徹?曰:仙露明珠,詎能方其朗潤。
書き下し
何をか聲色俱に清しと為す。 曰く、松風水月も、未だ其の清華に比するに足らず。 何をか神情俱に徹すと為す。 曰く、仙露明珠も、詎ぞ能く其の朗潤に方べんや。
現代語訳
声も姿もともに清らかとは、どういうことでしょうか。答えて言います。松を渡る風や水に映る月でさえ、その清らかな輝きに比べるには足りません。精神も心情もともに澄みきっているとは、どういうことでしょうか。答えて言います。仙人の露や輝く真珠でさえ、どうしてその明るく潤いのある美しさに並べることができましょうか。
解説
問答の形で、清らかさの極致を言い表した一則です。後半の二句は、唐の太宗が玄奘三蔵をたたえた「大唐三蔵聖教序」の、松風水月も未だ其の清華に比するに足らず、仙露明珠も詎ぞ能く其の朗潤に方べんや、という名文をそのまま用いたものです。太宗は、インドから経典を持ち帰った玄奘の人柄と学識を、自然界の最も清らかなものにもまさると称賛しました。声色倶清は声も姿も清らかなこと、神情倶徹は精神も心情も澄みきっていることです。清華は清らかな輝き、朗潤は明るく潤いのある美しさです。ここでは聖教序の言葉を借りて、人の清らかさの理想を示しています。美しい自然を並べても言い尽くせないほどの清らかさを持つ人がいる、という考えは、人の内面の美しさがどれほど尊いものかを教えてくれます。
この章句が説くこと
清廉玄奘品格修身名文
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