酔古堂剣掃 / 集倩・欲無き者は其の言清し
無欲者其言清,無累者其言達。口耳巽人,靈竅忽啟,故曰不為俗情所染,方能說法度人。
新字:無欲者其言清,無累者其言達。口耳巽人,霊竅忽啓,故曰不為俗情所染,方能説法度人。
書き下し
欲無き者は其の言清く、累無き者は其の言達す。 口耳人に巽へば、靈竅忽ち啟く、故に曰く、俗情の染むる所と為らずして、方に能く法を說きて人を度す、と。
現代語訳
欲のない人はその言葉が清らかで、わずらいのない人はその言葉が道理に通じています。口と耳が人に対して素直にへりくだっていれば、心の霊妙な窓がたちまち開きます。だから、俗な心に染まらないでいてこそ、はじめて教えを説いて人を救うことができる、と言われるのです。
解説
言葉の清らかさは、その人の心の清らかさから生まれるという一則です。前半の対句は、欲のない人の言葉は濁りがなく、心にわずらいのない人の言葉は道理に通じてとどこおりがない、という意味です。巽は『易経』の卦の名で、へりくだって従う徳を表します。口耳巽人の意味は取りにくいところですが、話すことも聞くことも人に対して謙虚であれば、と解しました。霊竅は心の霊妙なはたらきの通り道、ひらめきの窓のことです。説法度人は仏教の言葉で、教えを説いて人々を迷いから救うことです。人を導く言葉は、技巧ではなく、欲や俗情から離れた心から出てくるというのです。人に何かを伝えたいとき、話し方を磨く前に、自分の心に濁りがないかを振り返る大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
無欲言葉謙虚仏教修身
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