酔古堂剣掃 / 集倩・冰壺に坐して龍藏を觀る
韻言一展卷間,恍坐冰壺而觀龍藏。
新字:韻言一展巻間,恍坐冰壺而観竜蔵。
書き下し
韻言一たび卷を展ぶる間、恍として冰壺に坐して龍藏を觀る。
現代語訳
風雅な言葉をつづった本をひとたび開けば、まるで氷の壺の中に座って、龍宮に蔵された経典を見ているような心地になります。
解説
風雅な言葉を読む楽しみを、清らかさと奥深さの二つの比喩で表した一則です。韻言は趣のある言葉、風雅な文章のことで、この書そのものを指しているとも読めます。冰壺は氷を入れた玉の壺で、唐の王昌齢の詩に一片の氷心玉壺に在りとあるように、清らかで曇りのない心の象徴です。龍蔵は龍宮に収められていたと伝えられる仏典のことで、龍樹が龍宮に入って大乗経典を得たという伝説があります。転じて、仏教の経典の総体、つまり尽きることのない奥深い教えを意味します。すぐれた言葉を読むことは、心を澄ませてくれると同時に、深い教えに触れる体験でもあるというわけです。良い本を開く前に、少し心を静めてから読み始めると、同じ本でも受け取るものが違ってくるでしょう。
この章句が説くこと
読書清心仏典風雅言葉
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