酔古堂剣掃 / 集倩・孤榻雨中の山に對す
有客到柴門,清尊開江上之月;無人剪蒿徑,孤榻對雨中之山。
新字:有客到柴門,清尊開江上之月;無人剪蒿径,孤榻対雨中之山。
書き下し
客有りて柴門に到れば、清尊江上の月に開く。 人の蒿徑を剪る無ければ、孤榻雨中の山に對す。
現代語訳
客が柴の門にやってくれば、川の上の月のもとで清らかな酒樽を開けます。よもぎの生い茂る小道を刈る人もいなければ、ひとつの寝台で雨の中の山と向き合います。
解説
客のある日とない日、それぞれの楽しみを対にした一則です。柴門は柴を編んで作った粗末な門で、隠者の家を表します。清尊は清らかな酒を入れた樽です。客が来れば川面に映る月を眺めながら酒を酌み交わし、もてなします。蒿径はよもぎの生えた小道で、訪ねる人が少なく道の草も刈られないほど、ひっそりした暮らしを意味します。そういう日には一人で寝台に座り、雨に煙る山を眺めて過ごすのです。人と交わる喜びと、一人でいる静けさの両方を、どちらも同じくらい楽しんでいるところに、この句の味わいがあります。人付き合いが多くても少なくても、それぞれの時間を楽しめる心を持っていれば、暮らしはいつも満たされているのかもしれません。
この章句が説くこと
隠逸交友孤独月雨
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