酔古堂剣掃 / 集倩・肥壤に梅花を植う
肥壤植梅花,茂而其韻不古;沃土種竹枝,盛而其質不堅。竹徑松籬,盡堪娛目,何非一段清閑;園亭池榭,僅可容身,便是半生受用。
新字:肥壤植梅花,茂而其韻不古;沃土種竹枝,盛而其質不堅。竹径松籬,尽堪娯目,何非一段清閑;園亭池榭,僅可容身,便是半生受用。
書き下し
肥壤に梅花を植うれば、茂れども其の韻古ならず。 沃土に竹枝を種うれば、盛んなれども其の質堅からず。 竹徑松籬、盡く目を娛しましむるに堪ふ、何ぞ一段の清閑に非ざらん。 園亭池榭、僅かに身を容るべくんば、便ち是れ半生の受用なり。
現代語訳
肥えた土に梅を植えると、よく茂りはしてもその風韻は古雅になりません。肥えた土に竹を植えると、盛んに伸びはしてもその質は堅くなりません。竹の小道や松の垣根は、どれも目を楽しませるのに十分で、それがどうしてひとときの清らかな閑でないことがありましょう。庭の亭や池のほとりの建物は、わずかに身を入れられるだけあれば、それでもう半生を楽しむのに足りるのです。
解説
植物の育ち方から、暮らしの豊かさの本質に話を進めた一則です。梅や竹は、やせた土地で風雪に耐えて育つからこそ、古雅な趣や堅い節を持つと考えられてきました。肥えた土では見かけは立派でも、梅の韻や竹の質といった肝心なものが育たないというのです。この観察は、人も恵まれすぎた環境では骨格が育ちにくいという教えとしても読めます。後半は住まいの話で、竹の小道と松の垣根があれば十分楽しく、庭や亭も身を置けるだけの広さがあれば一生ものの楽しみになると言います。受用は受け取って味わい楽しむことです。広さや豪華さより、小さくとも味わい深い空間を大切にする考え方は、今の住まい選びにも通じるでしょう。
この章句が説くこと
清閑知足梅竹住まい
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