酔古堂剣掃 / 集倩・濠濮の間の想ひ
會心處,自有濠濮間想,然可親人魚鳥;偃臥時,便是羲皇上人,何必秋月涼風。
新字:会心処,自有濠濮間想,然可親人魚鳥;偃臥時,便是羲皇上人,何必秋月涼風。
書き下し
會心の處、自ら濠濮の間の想ひ有りて、然れば魚鳥も人に親しむべし。 偃臥の時、便ち是れ羲皇上の人、何ぞ必ずしも秋月涼風ならん。
現代語訳
心にかなう場所にいれば、おのずと濠や濮の川のほとりにいるような思いが湧いて、魚や鳥も人に親しんでくれるものです。のんびり寝そべっているときは、そのまま伏羲の時代より昔の人のようなもので、何も秋の月や涼しい風を待つ必要はありません。
解説
二つの有名な故事を下敷きにした一則です。前半は『世説新語』で、東晋の簡文帝が庭園に入り、心にかなう所は遠くにあるとは限らない、木々と水があれば濠や濮の川辺にいる思いがする、鳥や魚も自ら人に親しんでくると語った話に基づきます。濠と濮は、荘子が魚の楽しみを論じ、また楚の招きを断って釣りをした川です。後半は陶淵明が、夏の日に北の窓の下で寝ころび涼風を受けて、自分は伏羲より昔の人のようだと言った言葉を踏まえています。どちらも、特別な場所や季節を求めなくても、心の持ちようで身近な場が別天地になる、という点で通じています。近所の公園や自宅の窓辺でも、心がほどければ十分な楽しみになるのです。
この章句が説くこと
閑適自然荘子陶淵明隠逸
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『酔古堂剣掃』集素・會心の處は必ずしも遠きに在らず會心の處は必ずしも遠きに在らず。 翳然たる林水、便ち自ら濠濮の閒想有り、覺えず鳥獸禽魚、自ら來りて人に親しむ。
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