酔古堂剣掃 / 集靈・自ら羲皇上人と謂ふ
少學琴書,偶愛清淨,開卷有得,便欣然忘食;見樹木交映,時鳥變聲,亦復歡然有喜。常言五六月,臥北窗下,遇涼風暫至,自謂羲皇上人。
新字:少学琴書,偶愛清浄,開巻有得,便欣然忘食;見樹木交映,時鳥変声,亦復歓然有喜。常言五六月,臥北窗下,遇涼風暫至,自謂羲皇上人。
書き下し
少くして琴書を學び、偶たま清淨を愛す、卷を開きて得る有れば、便ち欣然として食を忘る。樹木の交はり映じ、時鳥の聲を變ふるを見れば、亦復た歡然として喜び有り。常に言ふ、五六月、北窗の下に臥し、涼風の暫く至るに遇へば、自ら羲皇上人と謂ふ、と。
現代語訳
若いころから琴と書物を学び、生まれつき清らかな静けさを好みました。書物を開いて得るところがあれば、うれしくて食事も忘れました。木々が交わって照り映え、季節の鳥が鳴き声を変えるのを見ると、またうれしくなりました。いつもこう言っていました。五月六月のころ、北の窓の下に寝ころんで、涼しい風がふっと吹いてくると、自分は伏羲の時代の人のようだと思う、と。
解説
東晋の陶淵明が、晩年に子どもたちへ宛てた手紙、与子儼等疏の一節をほぼそのまま採った一則です。琴と書物に親しみ、静けさを愛し、読書で得るところがあれば食事も忘れるという、陶淵明の人柄がよく表れています。季節の木々や鳥の声の変化に喜ぶ細やかな感受性も見えます。羲皇上人は太古の聖王伏羲の時代の人で、素朴で争いのない世に生きる人を意味します。夏の北窓の下で涼風に吹かれる、それだけで太古の聖代の民になった気がするというのは、幸福がささやかな瞬間にあることを教えてくれます。特別な出来事がなくても満ち足りる力こそ、生活を豊かにする鍵です。
この章句が説くこと
閑適読書自然陶淵明隠逸
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