酔古堂剣掃 / 集素・會心の處は必ずしも遠きに在らず
會心處不必在遠;翳然林水,便自有濠濮閒想,不覺鳥獸禽魚,自來親人。
新字:会心処不必在遠;翳然林水,便自有濠濮閒想,不覚鳥獣禽魚,自来親人。
書き下し
會心の處は必ずしも遠きに在らず。 翳然たる林水、便ち自ら濠濮の閒想有り、覺えず鳥獸禽魚、自ら來りて人に親しむ。
現代語訳
心にかなう所は、必ずしも遠くにあるわけではありません。木々が茂り水が陰を落とすところにいれば、おのずと濠水や濮水のほとりにいるような思いが湧き、いつのまにか鳥や獣、魚たちが自分から人に親しんで寄ってきます。
解説
身近な自然の中にこそ心の楽しみがあると説いた一則で、『世説新語』言語篇に見える、東晋の簡文帝が華林園に入ったときの言葉がもとです。会心は心にかなうこと、翳然は木々がこんもりと茂り陰をなすさまです。濠濮の想いは『荘子』の二つの話を踏まえます。荘子が濠水の橋の上で魚の楽しみを論じた話と、濮水で釣りをしていて楚王の招きを断った話で、どちらも自由で自然と一体になった境地を表します。遠くの名勝に出かけなくても、近所の公園や庭の木陰で心を開けば、鳥や魚さえ親しげに寄ってくるような安らぎが得られるのです。
この章句が説くこと
自然閑適荘子会心身近
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