酔古堂剣掃 / 集法・行きて水の窮まる處に到る
孟郊有句云:「青山碾為塵,白日無閑人。」於鄴云:「白日若不落,紅塵應更深。」又云:「如逢幽隱處,似遇獨醒人。」王維云:「行到水窮處,坐看雲起時。」又云:「明月松間照,清泉石上流。」皎然云:「少時不見山,便覺無奇趣。」每一吟諷,逸思翩翩。
新字:孟郊有句云:「青山碾為塵,白日無閑人。」於鄴云:「白日若不落,紅塵応更深。」又云:「如逢幽隠処,似遇独醒人。」王維云:「行到水窮処,坐看雲起時。」又云:「明月松間照,清泉石上流。」皎然云:「少時不見山,便覚無奇趣。」毎一吟諷,逸思翩翩。
書き下し
孟郊に句有りて云ふ、「青山碾きて塵と爲り、白日閑人無し」と。 於鄴云ふ、「白日若し落ちずんば、紅塵應に更に深かるべし」と。 又云ふ、「幽隱の處に逢ふが如く、獨醒の人に遇ふに似たり」と。 王維云ふ、「行きて水の窮まる處に到り、坐して雲の起こる時を看る」と。 又云ふ、「明月松間に照らし、清泉石上に流る」と。 皎然云ふ、「少時山を見ざれば、便ち奇趣無きを覺ゆ」と。 一たび吟諷する每に、逸思翩翩たり。
現代語訳
孟郊(唐の詩人)に「青い山も碾かれて塵となり、昼のあいだ暇な人などいない」という句があります。於鄴(唐の詩人)は「日がもし沈まなければ、俗世の塵はさらに深くなるだろう」と言い、また「ひっそりした隠れ家に出会ったようで、ただ一人醒めている人に会ったようだ」とも言っています。王維は「歩いて川の水の尽きるところまで行き、座って雲の湧き起こるときを眺める」と言い、また「明るい月が松の間を照らし、清らかな泉が石の上を流れる」とも言っています。皎然(唐の詩僧)は「しばらく山を見ないと、もう面白みがないように感じる」と言いました。これらを口ずさむたびに、俗を離れた思いがひらひらと舞い上がります。
解説
唐の詩人たちの句を書き抜き、その味わいを語った一則です。前半の孟郊と於鄴の句は、あくせくと働く俗世のせわしなさを嘆くものです。これに対して王維の二組の句は、山水の中で心を解き放つ境地を描き、よく知られた名句です。「行きて水の窮まる処に到り」は「終南別業」、「明月松間に照らし」は「山居秋暝」の一節です。皎然は唐の詩僧で、山を見ない日が続くと物足りなくなると詠みました。俗世のせわしなさと山水の静けさを対比させて並べる選び方に、編者の好みが表れています。逸思翩翩は、世俗を離れた思いが軽やかに舞い立つさまです。忙しさに追われる日には、好きな詩を一つ口ずさむだけでも、心に風が通るものです。
この章句が説くこと
風雅詩山水王維閑適
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