酔古堂剣掃 / 集法・恬退を獎むるは名節を勵ます
國家尊名節,獎恬退,雖一時未見其效,然當患難倉卒之際,終賴其用。如祿山之亂,河北二十四郡皆望風奔潰,而抗節不撓者,止一顏真卿,明皇初不識其人,則所謂名節者,亦未嘗不自恬退中得來也。故獎恬退者,乃所以勵名節。
新字:国家尊名節,獎恬退,雖一時未見其効,然当患難倉卒之際,終頼其用。如禄山之乱,河北二十四郡皆望風奔潰,而抗節不撓者,止一顔真卿,明皇初不識其人,則所謂名節者,亦未嘗不自恬退中得来也。故獎恬退者,乃所以励名節。
書き下し
國家、名節を尊び、恬退を獎むれば、一時は未だ其の效を見ずと雖も、然れども患難倉卒の際に當たりては、終に其の用に賴る。 祿山の亂の如き、河北二十四郡皆風を望みて奔潰し、而して節を抗げて撓まざる者は、止だ一の顏真卿のみ。 明皇初め其の人を識らず、則ち所謂名節なる者も、亦た未だ嘗て恬退の中より得來たらずんばあらざるなり。 故に恬退を獎むる者は、乃ち名節を勵ます所以なり。
現代語訳
国家が名誉と節操を尊び、地位を求めず身を引く人を奨励すれば、しばらくはその効果が見えなくても、災難やにわかの変事のときには、結局その人々の働きに頼ることになります。安禄山の乱のとき、河北の二十四郡はみな敵の勢いを見ただけで逃げ崩れましたが、節を守って屈しなかったのはただ一人、顔真卿だけでした。玄宗皇帝ははじめその人を知りませんでした。つまり名節というものも、じつは地位を求めない控えめな暮らしの中から生まれてくるのです。だから恬退を奨励することは、名節を励ますことにほかならないのです。
解説
欲のなさと節操の強さが同じ根から出ていることを、歴史の実例で示した一則です。恬退は名利に淡泊で、進んで身を引くことです。唐の玄宗の時代、安禄山が反乱を起こすと、河北の郡県は次々に降伏しましたが、平原太守の顔真卿は兵を集めて抵抗しました。玄宗はそれまで顔真卿の名も知らず、報告を聞いて驚いたと伝えられます。出世を競わず目立たなかった人物が、危急のときに最後まで踏みとどまったというわけです。著者はここから、控えめな人を重んじる気風こそが、いざというときの気骨ある人を育てると説きます。平時に声の大きい人ばかりが評価される組織は、危機に弱いのかもしれません。黙々と筋を通す人に光を当てることの意味を考えさせられます。
この章句が説くこと
名節恬退治政忠義謙虚
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