酔古堂剣掃 / 集豪・其の千古の心有るを取る
立言者,未必即成千古之業,吾取其有千古之心;好客者,未必即盡四海之交,吾取其有四海之願。
新字:立言者,未必即成千古之業,吾取其有千古之心;好客者,未必即尽四海之交,吾取其有四海之願。
書き下し
言を立つる者は、未だ必ずしも即ち千古の業を成さざるも、吾は其の千古の心有るを取る。客を好む者は、未だ必ずしも即ち四海の交はりを盡くさざるも、吾は其の四海の願ひ有るを取る。
現代語訳
言葉を書き残そうとする人が、必ずしもすぐに千年に残る仕事を成し遂げるわけではありません。それでも私は、その人が千年先を思う心を持っていることを評価します。客をもてなすのが好きな人が、必ずしも天下の人々と交わり尽くせるわけではありません。それでも私は、その人が天下の人と交わりたいという願いを持っていることを評価します。
解説
結果よりも志の大きさを重んじるという見方を、対句で示した一則です。立言は、書物や言葉を残して後世に伝えることで、古くは徳を立て、功を立てることと並べて三つの不朽と呼ばれました。千古は千年、四海は天下のことです。著者は、成し遂げたかどうかより、そこへ向かう心があるかどうかを取ると言います。成果ばかりが問われる今の職場では、見過ごされがちな視点です。まだ形にならない若い人の大きな志を、笑わずに認めることも、上に立つ人の大切な役目ではないでしょうか。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
立志交友志評価器量
関連する章句
-
『講孟余話』盡心上 第十一章欿然として自ら満たさざるは、其の志大に、其の量宏に、願ふ所素より茲にあらざるなり。其の次は是れを得て恣然として自ら放にするあり、又更に蹜蹙として自ら安んぜざる者あり、是れを最下とす。漢の更始将軍劉玄の如き是れなり。
-
史記 刺客列伝高漸離名姓を変じて人の庸保と為り、宋子に匿れ作す。之を久しくして、作苦しく、其の家の堂上に客の筑を撃つを聞き、傍偟して去る能はず。毎に言を出だして曰く、「彼に善有り善ならざる有り」と。従者以て其の主に告げて曰く、「彼の庸は乃ち音を知り、竊かに是非を言ふ」と。家の丈人召して前に筑を撃たしむ。一坐善しと称し、酒を賜ふ。而して高漸離、久しく隠れて畏約すること窮まる時無きを念ひ、乃ち退きて、其の装匣の中の筑と其の善衣とを出だし、容貌を更めて前む。坐を挙げて客皆驚き、下りて与に抗礼し、以て上客と為す。筑を撃ちて歌はしむ。客流涕して去らざる者無し。宋子伝へて之を客とし、秦の始皇に聞こゆ。秦の始皇召し見る。人識る者有りて、乃ち曰く、「高漸離なり」と。秦の皇帝其の善く筑を撃つを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐す。筑を撃たしむるに、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。稍く益々之に近づく。高漸離乃ち鉛を以て筑の中に置き、復た進みて近づくを得、筑を挙げて秦の皇帝を樸つ。中らず。是に於て遂に高漸離を誅し、身を終ふるまで復た諸侯の人に近づかず。魯句践已に荊軻の秦王を刺せしを聞き、私かに曰く、「嗟乎、惜しいかな其の刺剣の術を講ぜざりしや。甚だしいかな吾の人を知らざるや。曩者吾之を叱す。彼乃ち我を以て人に非ずと為せしならん」と。太史公曰く、世に荊軻を言ふに、其の太子丹の命を称して、「天粟を雨らし、馬角を生ず」とするや、太だ過ぎたり。又荊軻秦王を傷つくと言ふも、皆非なり。始め公孫季功・董生、夏無且と游び、具に其の事を知り、余の為に之を道ふこと是の如し。曹沫より荊軻に至るまで五人、此れ其の義或いは成り或いは成らず。然れども其の意を立つること較然として、其の志を欺かず、名後世に垂る。豈に妄ならんや。
-
『墨子』大取其の愛を去りて天下利あらば、去る能わざらんや。昔の墻を知るは、今日の墻を知るに非ざるなり。貴きこと天子と為るも、其の人を利するは正夫より厚からず。二子、親に事うるに、或いは熟に遇い、或いは凶に遇う。其の親するや相い若し。彼の其の行いの益すに非ざるなり、加うるに非ざるなり。外執、能く吾が利を厚くする者無し。藉し臧や死して天下害あらば、吾れ特だ臧を養うこと萬倍するも、吾が臧を愛するや厚きを加えず。長き人の異と短き人の同とは、其の貌の同じき者なり、故に同じ。指の人と、首の人とは異なる。人の體は一貌なる者に非ざるなり、故に異なる。将劒と挺劒とは異なる。劒は形貌を以て命ずる者なり、其の形一ならず、故に異なる。楊木の木と、桃木の木とは同じ。諸そ量數を舉ぐるを以て命ぜざる者は、之を敗るも、盡く是なり。故に一人の指は、一人に非ざるなり。是れ一人の指は、乃ち是れ一人なり。方の一靣は、方に非ざるなり。方木の靣は、方木なり。
-
『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
-
『学則』答屈景山書夫れ士の其の世に生まるる、此に非ざれば則ち出でて其の道を行ひ、功を策し名を立てて、以て其の父母を顕はす能はず。千秋の志無しと雖も、是れも亦た恕すべきのみ。二公の古文辞を倡ふるは、皆進士に第するの後に在り。而して二公の興るや、従游時師に過ぐ。時師の妒みを来たす所以なり。然れども二公は朝廷の功令に勝つ能はず、亦た人人の功名の心に勝つ能はず。故に人の之を非笑すること、猶ほ韓公の如し。而るに二公は人の非笑を顧みず、寧ろ世に知られず、此に藉りて禍を得るも、千歳の鍾期を竢つ者、亦た猶ほ韓公の如し。是れ其の心独り何ぞや。学問の道は諸を古に本づくればなり。夫れ志を立つること此くの如し。豈に模擬剽窃を是れ為さんや。此を以て之を観れば、妒口に非ずして何ぞや。
-
『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、何某殿は大なる修行者ではをりないか、何たる大病を受けて死すとも、隣あるきする様に死なんと云はれたり。時に一僧云、只左様に思ひたる計りにて、修行は仕さうな人に非す。師曰、ともあれ兎角大なる修行の種は有る人也。