酔古堂剣掃 / 集豪・寧馨兒
王仲祖有好形儀,每覽鏡自照,曰:「王文開那生寧馨兒?」
新字:王仲祖有好形儀,毎覧鏡自照,曰:「王文開那生寧馨児?」
書き下し
王仲祖は好き形儀有り、鏡を覽て自ら照らす每に、曰く、 「王文開那ぞ寧馨兒を生めるや」と。
現代語訳
王仲祖(晋の王濛)は容姿が立派で、鏡を手に取って自分の姿を映すたびに、「王文開(父の王訥)は、どうしてこんなにすばらしい子を生んだのだろう」と言っていました。
解説
晋の王濛の、自分の容姿へのあけっぴろげな自賛を記した一則で、『世説新語』に見える話です。王濛は字を仲祖といい、容姿の美しさで知られた名士でした。父の王訥は字を文開といいます。鏡を見るたびに、父はどうしてこんなに良い子を生んだのかと言ったというのです。寧馨児は、晋の時代の口語で、このような子という意味で、のちに優れた子を褒める言葉となりました。自分をほめるのは本来みっともないことですが、ここまで堂々としていると、かえって嫌味がなく、ユーモアとして受け取れます。集豪に収められたのは、世間の目を気にせず自分を肯定する大らかさを、一つの豪と見たからでしょう。自分を好きでいることの大切さも思わせます。
この章句が説くこと
自負容姿諧謔世説新語自己肯定
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