酔古堂剣掃 / 集豪・寧ろ怒罵せしむとも
須眉之士,在世寧使鄉裏小兒怒罵,不當使鄉裏小兒見憐。
新字:須眉之士,在世寧使郷裏小児怒罵,不当使郷裏小児見憐。
書き下し
須眉の士は、世に在りて寧ろ鄉裏の小兒をして怒罵せしむとも、 當に鄉裏の小兒をして憐れまれしむべからず。
現代語訳
ひげと眉を備えた一人前の男は、世に生きるにあたって、むしろ村の子どもたちに怒って罵られるほうがよく、村の子どもたちに哀れまれるようであってはなりません。
解説
哀れまれることを恥とする、男子の気概を示した一則です。須眉は、あごひげと眉のことで、転じて一人前の男子を指します。郷里の小児は、村の子どもたち、あるいはつまらない人々のことです。そうした人々に怒鳴られ罵られるのは、それだけ自分が何かをしている証であり、恐れるに足りません。しかし哀れまれるのは、無力で何もできない者と見られていることであり、それこそが恥だと言います。集奇にあった、才がありながら人に憐れまれるのは無用の証だ、という句にも通じる考え方です。批判されることを恐れて何もしないより、批判されても行動するほうがよい。挑戦する人を励ます言葉として読むことができます。
この章句が説くこと
気概自尊挑戦処世胆力
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