驢鞍橋 / 卷上
一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を發して修すべしと也。
新字:一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。
書き下し
一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。
現代語訳
ある日言われた。今は修行に出会って、自分を出す人がいない。みな、くどくどしているばかりである。強く目をつけて修行し、何としても生死を出離しようという大我慢を起こして修めなさい、と。
解説
我慢は仏教では慢心を指す悪い言葉だが、正三はあえて大我慢を起こせと言う。修行の場で遠慮して自分を出さず、くよくよしているだけの人ばかりだ、何としても生死を越えてやるという強い自負を持て、と。前条までの謙虚さの教えと矛盾するようだが、自分を誇る小さな慢心と、困難に挑む大きな気概とは違う。遠慮や自信のなさで挑戦から逃げる人に、あえて大きな我を張れと背中を押す言葉である。
この章句が説くこと
大我慢気概自負挑戦修行生死出離
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