酔古堂剣掃 / 集豪・些かの真影を剩す
車塵馬足之下,露出醜形,深山窮谷之中,剩些真影。
新字:車塵馬足之下,露出醜形,深山窮谷之中,剰些真影。
書き下し
車塵馬足の下、醜形を露出し、 深山窮谷の中、些かの真影を剩す。
現代語訳
車の土ぼこりと馬の足元の中では、醜い姿をさらけ出し、奥深い山と行き止まりの谷の中では、わずかながら本当の姿が残っています。
解説
俗世と山中とで、人の姿がどう変わるかを対比した一則です。車塵馬足は、車が巻き上げるほこりと馬の足で、名利を求めて人々が行き交う都会の俗世を表します。そこでは人は権勢に媚び、利益を奪い合い、醜い姿をさらけ出してしまいます。一方、深い山や人の来ない谷の中では、飾る必要も争う必要もなく、わずかながらも本来の自分の姿が保たれると言います。真影は、偽りのない本当の姿のことです。些かという控えめな言葉に、山中にあっても完全に清らかになれるわけではないという自覚がにじみます。忙しさや競争に追われるときほど、ときに静かな場所に身を置いて、自分の本当の姿を確かめる時間を持ちたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
隠逸名利本性自然自省
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