酔古堂剣掃 / 集綺・情詞の嫻美
情詞之嫻美,《西廂》以後,無如《玉合》、《紫釵》、《牡丹亭》三傳。置之案頭,可以挽文思之枯澀,收神情之懶散。
新字:情詞之嫻美,《西廂》以後,無如《玉合》、《紫釵》、《牡丹亭》三伝。置之案頭,可以挽文思之枯澀,収神情之懶散。
書き下し
情詞の嫻美なるは、『西廂』以後、『玉合』・『紫釵』・『牡丹亭』の三傳に如くは無し。 之を案頭に置けば、以て文思の枯澀を挽き、神情の懶散を收むべし。
現代語訳
恋の情を描いた言葉のしとやかな美しさでは、『西廂記』より後、『玉合記』『紫釵記』『牡丹亭』の三つの戯曲に及ぶものはありません。これを机の上に置いておけば、文章を考える力が枯れて渋るのを引き戻し、気持ちのだらけを引き締めることができます。
解説
恋を描いた戯曲の名作を挙げ、それを座右に置く効用を述べた一則です。『西廂記』は元の王実甫の作で、張生と崔鶯鶯の恋を描いた戯曲の最高傑作とされます。『玉合記』は明の梅鼎祚の作、『紫釵記』と『牡丹亭』は明の湯顕祖の作で、いずれも著者と同じ明代後期に人気を博した作品です。とくに『牡丹亭』は、夢で出会った恋人を思って死んだ娘が蘇るという物語で、情の力を讃えた作品として知られます。著者は、こうした作品を机に置けば、枯れた文才が潤い、だらけた気持ちが引き締まると言います。心を動かす物語に触れることが、創作や仕事の活力になるというのは、今日にも通じる実感でしょう。
この章句が説くこと
戯曲恋愛文学読書創作
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