酔古堂剣掃 / 集奇・萬民を魚と爲す
古之釣也,以聖賢為竿,道德為綸,仁義為鉤,利祿為餌,四海為池,萬民為魚。釣道微矣,非聖人其孰能之。
新字:古之釣也,以聖賢為竿,道徳為綸,仁義為鉤,利禄為餌,四海為池,万民為魚。釣道微矣,非聖人其孰能之。
書き下し
古の釣るや、聖賢を以て竿と爲し、道德を綸と爲し、仁義を鉤と爲し、利祿を餌と爲し、四海を池と爲し、萬民を魚と爲す。 釣の道微なり、聖人に非ずんば其れ孰か能く之をせん。
現代語訳
昔の釣りというものは、聖賢を竿とし、道徳を釣り糸とし、仁義を釣り針とし、利益と俸禄を餌とし、天下を池とし、すべての民を魚としました。釣りの道は奥深く、聖人でなければ、いったい誰がこれをなしえるでしょうか。
解説
天下を治めることを、壮大な釣りにたとえた一則です。竿、糸、針、餌、池、魚という釣りの道具立てを、一つずつ政治の要素に置き換えていきます。聖賢という人材を竿に、道徳を糸に、仁義を針にし、利禄を餌として人々を引き寄せ、天下を池として万民を釣り上げるというのです。餌に利禄を置いているところが率直で、人は理想だけでは動かず、報いがあってこそ集まるという現実も見ています。ただし針は仁義であり、糸は道徳です。釣りを政治にたとえることは太公望の故事などで古くから知られています。組織を率いる立場の人にとって、報酬と理念の両方を備えよという教えとして読めます。
この章句が説くこと
治政仁義道徳統率人材
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