酔古堂剣掃 / 集奇・冷眼一隻
點破無稽不根之論,只須冷語半言;看透陰陽顛倒之行,惟此冷眼一隻。
新字:点破無稽不根之論,只須冷語半言;看透陰陽顛倒之行,惟此冷眼一隻。
書き下し
無稽不根の論を點破するは、只だ冷語半言を須ふ。 陰陽顛倒の行を看透すは、惟だ此の冷眼一隻のみ。
現代語訳
でたらめで根拠のない議論を見破るには、冷ややかな一言半句があれば十分です。表と裏がひっくり返った行いを見抜くには、ただこの冷静な片目があるだけでよいのです。
解説
根拠のない議論と裏表のある行いに対して、熱くならずに冷静に向き合う構えを説いた一則です。無稽不根は、でたらめで根も葉もないことです。そうした議論に長々と反論する必要はなく、要点を突く冷ややかな一言で足りると言います。陰陽顛倒は、表と裏、正と邪がひっくり返っている様子で、口では立派なことを言いながら裏で逆のことをする行いを指します。それを見抜くのに必要なのは、情に流されない冷めた眼だと言います。冷眼一隻は、片目だけで足りるという言い方で、余裕のある観察を表しています。議論が熱を帯びる場面ほど、言葉を減らし、目を冷ましておくことが大切だと教えてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
冷静見識洞察処世言葉
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