酔古堂剣掃 / 集奇・筍は禪味を含む
筍含禪味,喜坡仙玉版之參;石結清盟,受米顛袍笏之辱。文如臨畫,曾致誚於昔人;詩類書抄,竟沿流於今日。
新字:筍含禅味,喜坡仙玉版之参;石結清盟,受米顛袍笏之辱。文如臨画,曽致誚於昔人;詩類書抄,竟沿流於今日。
書き下し
筍は禪味を含む、坡仙の玉版の參を喜ぶ。石は清盟を結ぶ、米顛の袍笏の辱を受く。文の畫を臨むが如きは、曾て誚を昔人に致し、詩の書抄に類するは、竟に流れを今日に沿ふ。
現代語訳
筍には禅の味わいがあり、坡仙(宋の蘇軾)が「玉版和尚に参じよう」と言って筍を楽しんだのを喜ばしく思います。石とは清らかな盟約を結ぶもので、米顛(宋の米芾)は正装して石を拝み、その辱めを石に受けさせました。文章が絵を手本どおりに写すようなものであるのは、かつて昔の人にもそしられましたが、詩が書物からの抜き書きのようであるのは、とうとう今日まで流行が続いています。
解説
宋の文人の逸話と、模倣に流れる文学への批判とを並べた一則です。蘇軾は友人を玉版和尚に参禅しようと誘い、実は筍を食べさせたという話があり、玉版は筍の別名になりました。米芾は奇石を愛し、正装して袍と笏を整え、石を兄と呼んで拝んだことで知られ、その奇行から米顛と呼ばれました。後半は文学論で、臨画は手本の絵をそのまま写すこと、書抄は書物の抜き書きのことです。手本をなぞっただけの文章はかつても批判されたのに、書物の寄せ集めのような詩は今も流行している、と嘆いています。学ぶことは大切ですが、借り物の言葉だけでは人の心は動きません。自分の言葉で書く姿勢を持ちたいものです。
この章句が説くこと
詩文模倣禅奇行創造
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