酔古堂剣掃 / 集靈・丹青は詩に似、詩句は言無し
長於筆者,文章即如言語;長於舌者,言語即成文章。昔人謂「丹青乃無言之詩,詩句乃有言之畫」;餘則欲丹青似詩,詩句無言,方許各臻妙境。
新字:長於筆者,文章即如言語;長於舌者,言語即成文章。昔人謂「丹青乃無言之詩,詩句乃有言之画」;余則欲丹青似詩,詩句無言,方許各臻妙境。
書き下し
筆に長ずる者は、文章即ち言語の如く、舌に長ずる者は、言語即ち文章を成す。 昔人謂ふ「丹青は乃ち無言の詩、詩句は乃ち有言の畫なり」と。 餘は則ち丹青は詩に似、詩句は言無からんことを欲す、方に各おの妙境に臻るを許さん。
現代語訳
筆の立つ人は、書いた文章がそのまま話し言葉のように自然です。弁の立つ人は、話す言葉がそのまま文章になっています。昔の人は「絵は言葉のない詩であり、詩は言葉のある絵である」と言いました。私はといえば、絵は詩に似ていて、詩は言葉を超えたものであってほしいと思います。そうなってはじめて、それぞれが絶妙の境地に達したと認められるのです。
解説
文章と話し言葉、絵と詩とが互いに通い合う境地を論じた一則です。前半は、名文家の文章は話すように自然で、話し上手の言葉はそのまま文章になると言います。丹青は赤と青の絵の具で、絵画のことです。絵は無言の詩、詩は有言の絵という言葉は、北宋の蘇軾が王維を評して、詩中に画あり画中に詩ありと述べた考えに通じます。作者はさらに一歩進め、絵は詩のような余韻を持ち、詩は言葉の外に意味を響かせるべきだとします。説明し尽くさずに伝わるものこそ上質だという考えは、企画書や文章にも生かせます。
この章句が説くこと
詩画文章風雅余韻芸術
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