酔古堂剣掃 / 集靈・唐と說き宋と說くを必せず
作詩能把眼前光景,胸中情趣,一筆寫出,便是作者,不必說唐說宋。
新字:作詩能把眼前光景,胸中情趣,一筆写出,便是作者,不必説唐説宋。
書き下し
詩を作るに能く眼前の光景、胸中の情趣を把りて、一筆に寫し出せば、便ち是れ作者なり、唐と說き宋と說くを必せず。
現代語訳
詩を作るとき、目の前の景色と胸の中の思いを、一筆でそのまま書き表すことができれば、それこそが本物の詩人です。唐の詩がよい、宋の詩がよいなどと論じる必要はありません。
解説
詩の良し悪しは時代の様式ではなく、自分の目と心を写せるかどうかで決まると言う一則です。明の詩壇では、盛唐の詩を手本とせよという主張と、宋の詩にも学ぶべきだという主張が対立し、どの時代の詩をまねるかが盛んに論じられました。作者はここでは本当の作り手、一家をなす詩人の意味です。手本の議論に明け暮れるより、見たものと感じたことを素直に書けばよいというのは、前の役者のたとえの一則とも通じる考えです。文章でも企画でも、他人の成功例の型ばかり研究するより、自分の目で見て感じたことから出発したほうが、人の心に届くものが生まれます。
この章句が説くこと
詩表現文章風雅独創
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『酔古堂剣掃』集靈・丹青は詩に似、詩句は言無し筆に長ずる者は、文章即ち言語の如く、舌に長ずる者は、言語即ち文章を成す。 昔人謂ふ「丹青は乃ち無言の詩、詩句は乃ち有言の畫なり」と。 餘は則ち丹青は詩に似、詩句は言無からんことを欲す、方に各おの妙境に臻るを許さん。
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『酔古堂剣掃』集靈・淡宕なるが故なり人に一字も識らずして、詩意多き有り。一偈も參ぜずして、禪意多く、一勺も濡さずして、酒意多く、一石も曉らずして、畫意多し。淡宕なるが故なり。
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