酔古堂剣掃 / 集韻・白日は羲皇の世
白日羲皇世,青山綺皓心。
書き下し
白日は羲皇の世、青山は綺皓の心。
現代語訳
明るい昼は伏羲(太古の聖王)の世のように穏やかで、青い山は商山の四皓(秦末漢初の四人の隠者)の心のようです。
解説
昼の穏やかさと山の清らかさを、太古の世と古の隠者にたとえた対句です。羲皇は伝説の聖王伏羲で、羲皇の世はまだ争いも欲もない素朴な太古を言います。晋の陶淵明が、夏の北窓の下で涼風に吹かれ、自ら羲皇上人と称したことはよく知られます。綺皓は綺里季ら商山四皓のことで、秦の乱世を避けて商山に隠れた、白髪の四人の老人です。明るい日差しの下で過ごす一日は太古の平和そのもの、仰ぎ見る青山には世を避けた賢者の心が宿っている、というのです。穏やかな休日の昼下がりに、こうした古人の心を思い浮かべてみると、時間の流れがゆったりと感じられるでしょう。
この章句が説くこと
隠逸閑適清閑自然古人
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『酔古堂剣掃』集靈・自ら羲皇上人と謂ふ少くして琴書を學び、偶たま清淨を愛す、卷を開きて得る有れば、便ち欣然として食を忘る。樹木の交はり映じ、時鳥の聲を變ふるを見れば、亦復た歡然として喜び有り。常に言ふ、五六月、北窗の下に臥し、涼風の暫く至るに遇へば、自ら羲皇上人と謂ふ、と。
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『酔古堂剣掃』集倩・濠濮の間の想ひ會心の處、自ら濠濮の間の想ひ有りて、然れば魚鳥も人に親しむべし。 偃臥の時、便ち是れ羲皇上の人、何ぞ必ずしも秋月涼風ならん。
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『酔古堂剣掃』集靈・方に華胥に游び羲皇に接す九山散樵は、跡を俗間にして徜徉として自ら肆にす。佳き山水の處に遇へば、盤礡箕踞し、四顧して人無ければ、則ち劃然として長嘯し、聲林木を振るはす。客の榻に造りて與に語る有れば、對へて曰く、「餘方に華胥に游び、羲皇に接す、未だ君の語を理むるに暇あらず」と。客の去留、蕭然として以て意と為さず。
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『酔古堂剣掃』集靈・火宅炎宮に蓮花忽ち迸る暑を深林に逃るれば、南風樹に逗まる。 帽を脫ぎて頂を露はし、李を沈め瓜を浮かぶ。 火宅炎宮に、蓮花忽ち迸る。 之を陶潛の北窗の下に臥して、自ら羲皇上人と稱するに較ぶれば、此の樂しみ半ばに過ぐ。