酔古堂剣掃 / 集靈・方に華胥に游び羲皇に接す
九山散樵跡,俗間徜徉自肆,遇佳山水處,盤礡箕踞,四顧無人,則劃然長嘯,聲振林木;有客造榻與語,對曰:「餘方游華胥,接羲皇,未暇理君語。」客之去留,蕭然不以為意。
新字:九山散樵跡,俗間徜徉自肆,遇佳山水処,盤礡箕踞,四顧無人,則劃然長嘯,声振林木;有客造榻与語,対曰:「余方游華胥,接羲皇,未暇理君語。」客之去留,蕭然不以為意。
書き下し
九山散樵は、跡を俗間にして徜徉として自ら肆にす。佳き山水の處に遇へば、盤礡箕踞し、四顧して人無ければ、則ち劃然として長嘯し、聲林木を振るはす。客の榻に造りて與に語る有れば、對へて曰く、「餘方に華胥に游び、羲皇に接す、未だ君の語を理むるに暇あらず」と。客の去留、蕭然として以て意と為さず。
現代語訳
九山散樵(号で呼ばれる一人の隠者)は、俗世に身を置きながら、気ままにぶらつき思うままに振る舞っていました。よい山水の場所に出会うと、足を投げ出してどっかりと座り、あたりを見回して人がいなければ、からりと長く口笛を吹き、その声は林の木々を震わせました。客が寝台のそばまで来て話しかけると、「私は今、華胥の国(黄帝が夢に遊んだ理想郷)に遊び、伏羲の時代の人と会っているところで、あなたの話を聞く暇はありません」と答えました。客が帰ろうと残ろうと、さっぱりとして気にかけませんでした。
解説
世俗の中にいながら心は俗を離れた、一人の隠者の姿を描いた小伝です。盤礡箕踞は足を投げ出して座る無作法な姿で、形式にとらわれない自由さを表します。長嘯は口をすぼめて長く声を出すことで、晋の阮籍など隠逸の士が好んだ振る舞いです。華胥は列子で黄帝が夢に遊んだ理想の国、羲皇は太古の聖王伏羲で、どちらも俗世を忘れた境地のたとえです。原文の餘は一人称の余に当たります。客への応対は失礼にも見えますが、人の評価に振り回されない心の自由がうかがえます。人付き合いに疲れたとき、自分の世界に遊ぶ時間を持つことの大切さを思わせます。
この章句が説くこと
隠逸閑適自由山水脱俗
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