酔古堂剣掃 / 集韻・空山に雨掛かる
謝將縹緲無歸處,斷浦沈雲;行到紛紜不繫時,空山掛雨。
新字:謝将縹緲無帰処,断浦沈雲;行到紛紜不繋時,空山掛雨。
書き下し
謝し將て縹緲として歸る處無く、斷浦に雲沈む。行きて紛紜として繫がれざる時に到れば、空山に雨掛かる。
現代語訳
花が散りかけて、ほのかに漂いながら帰るところもなくなると、途切れた入り江に雲が沈んでいきます。歩みを進めて、乱れて何にもつながれない時に至ると、人けのない山に雨がかかります。
解説
心の行方の定まらなさを、雲と雨の景色に重ねた対句です。字句が難しく、ここでは謝を花や物事の衰え散ること、縹緲をかすかに漂うことと読んでおきます。断浦は途切れた入り江、紛紜は乱れて入り組んだありさま、不繋は何にもつながれないことです。帰るところもなく漂うときには雲が入り江に沈み、何にも縛られず乱れるときには空山に雨がかかる、と心の状態と風景とが呼応しています。寂しさとも自由ともつかない気分を、景色に託して言い表しているのでしょう。言葉にしにくい気持ちを、景色に重ねて眺めてみると、少し落ち着いて向き合えることがあります。
この章句が説くこと
風雅自然心境漂泊孤独
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