酔古堂剣掃 / 集韻・經を翻すは壁觀の僧の如し
翻經如壁觀僧,飲酒如醉道士,橫琴如黃葛野人,肅客如碧桃漁父。
新字:翻経如壁観僧,飲酒如酔道士,横琴如黄葛野人,粛客如碧桃漁父。
書き下し
經を翻すは壁觀の僧の如く、酒を飲むは醉道士の如く、琴を橫たふるは黃葛の野人の如く、客を肅むるは碧桃の漁父の如し。
現代語訳
経典をめくるときは、壁に向かって座禅する僧のように。酒を飲むときは、酔いどれの道士のように。琴を横たえて弾くときは、黄色い葛の衣をまとった野の人のように。客を迎え入れるときは、碧い桃の花咲く里の漁師のように。
解説
読経、飲酒、弾琴、客のもてなしの四つの場面で、手本とすべき人物像を挙げた一則です。壁觀は、禅宗の祖とされる達磨が壁に向かって九年間座禅したという、面壁の故事を思わせる言葉で、経を読むときの集中を表しています。醉道士は、酒に酔って自由にふるまう道士で、とらわれのない飲み方を表します。黃葛の野人は、葛の衣をまとう素朴な田舎の人で、技巧に走らない琴の弾き方を表しています。碧桃の漁父は、陶淵明の桃花源記で桃源郷に迷い込んだ漁師を思わせ、客を迎えるときは、桃源の人々のように素朴で温かくもてなせというのでしょう。それぞれの場面にふさわしい心構えを、人物の姿で示しているのが巧みです。
この章句が説くこと
風雅修身禅もてなし手本
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