酔古堂剣掃 / 集韻・韻の一字は對癥の藥
人生斯世,不能讀盡天下秘書靈笈。有目而昧,有口而啞,有耳而聾,而面上三斗俗塵,何時掃去?則韻之一字,其世人對癥之藥乎?雖然,今世且有焚香啜茗,清涼在口,塵俗在心,儼然自附於韻,亦何異三家村老嫗,動口念阿彌,便雲升天成佛也。集韻第七。
新字:人生斯世,不能読尽天下秘書霊笈。有目而昧,有口而唖,有耳而聾,而面上三斗俗塵,何時掃去?則韻之一字,其世人対癥之薬乎?雖然,今世且有焚香啜茗,清涼在口,塵俗在心,儼然自附於韻,亦何異三家村老嫗,動口念阿弥,便雲升天成仏也。集韻第七。
書き下し
人斯の世に生まれて、天下の秘書靈笈を讀み盡す能はず。 目有りて昧く、口有りて啞し、耳有りて聾し、而して面上の三斗の俗塵、何れの時にか掃ひ去らん。 則ち韻の一字は、其れ世人對癥の藥か。 然りと雖も、今の世且つ香を焚き茗を啜り、清涼口に在りて、塵俗心に在り、儼然として自ら韻に附する有り、亦た何ぞ三家村の老嫗、口を動かして阿彌を念じ、便ち天に升り佛と成ると雲ふに異ならんや。 集韻第七。
現代語訳
人はこの世に生まれても、天下の秘められた書物や霊妙な書をすべて読み尽くすことはできません。目があっても見えず、口があっても話せず、耳があっても聞こえないようなもので、顔に積もった三斗もの俗世の塵は、いつになったら払い落とせるのでしょうか。そうだとすれば、韻という一字こそ、世の人の病に合った薬ではないでしょうか。とはいえ、今の世には、香を焚き茶をすすって、口には清涼を含みながら、心には俗塵を抱えたまま、いかにももっともらしく自分は風雅の人だと称する者もいます。それは、辺鄙な村の老婆が、口先で阿弥陀仏の名を唱えただけで、天に昇って仏になれると言うのと、どこが違うでしょうか。以上を集韻第七とします。
解説
集韻の巻頭に置かれた陸紹珩の小序で、この集が風雅の趣、すなわち韻にかかわる言葉を集めたものであることを示しています。人は書物を読み尽くせず、目も口も耳も俗に曇り、顔には俗世の塵が厚く積もっていると嘆きます。その俗を払う薬として、韻の一字を挙げています。韻は、ここでは風雅な趣、気品のある味わいのことです。ところが後半では、香を焚き茶を飲む形だけをまねて、心は俗なまま風雅を気取る人々を厳しく批判しています。三家村は、家が三軒しかないような辺鄙な寒村のことです。底本の雲ふは、云ふの意味です。形をまねるだけでは本物にならないという戒めは、趣味や教養を身につけようとする今の私たちにも向けられています。
この章句が説くこと
風雅修身読書形式本質
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