酔古堂剣掃 / 集峭・便ち三分の禪理を減ず
名衲談禪,必執經升座,便減三分禪理。
新字:名衲談禅,必執経升座,便減三分禅理。
書き下し
名衲の禪を談ずるに、必ず經を執りて座に升れば、便ち三分の禪理を減ず。
現代語訳
名高い僧が禅を語るのに、わざわざ経典を手に取り高座に上るようでは、それだけで禅の道理が三割がた損なわれてしまいます。
解説
形式にとらわれた禅の語り方を皮肉った一則です。名衲は名の知られた禅僧で、衲は僧の着る継ぎはぎの衣から僧を指します。升座は説法のために高い座に上ることです。禅はもともと「不立文字、教外別伝」を掲げ、文字や経典によらず心から心へ伝えることを重んじました。それなのに、経典を手にして高座から講釈するのでは、禅の本旨から外れてしまうと言うのです。三分は三割ほどという意味です。立派な形式を整えるほど、かえって中身が薄れることは今もよくあります。資料や肩書きに頼らず、自分の言葉で本質を伝えられるかどうかが、本当の理解の試金石なのかもしれません。
この章句が説くこと
禅形式本質不立文字仏教
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