論語 / 陽貨篇
子曰:「禮云禮云,玉帛云乎哉?樂云樂云!鐘鼓云乎哉?」
新字:子曰:「礼云礼云,玉帛云乎哉?楽云楽云!鐘鼓云乎哉?」
書き下し
子曰く、礼と云い礼と云う、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓を云わんや。
現代語訳
先生がおっしゃった。「礼だ礼だと言うが、玉や絹の贈り物のことを言っているのだろうか。楽だ楽だと言うが、鐘や太鼓のことを言っているのだろうか。」
解説
礼と楽を、道具の話に矮小化することへの苛立ちである。玉帛は礼の贈答品、鐘鼓は楽の楽器。どちらも目に見え、金額がつき、比較できる。だから礼や楽を論じるとき、話はそちらへ流れる。中身は見えないので、議論の対象にならない。同じことは組織の中でも起きる。理念を語るはずの場が、ロゴやスローガンの議論になる。育成を語る場が、研修の本数と予算の話になる。見えるものは議論しやすいので、時間の大半がそちらに使われる。孔子の問いは単純だ。それは本当に、あなたが言おうとしていたものか、と。見える部分の議論を禁じる必要はない。ただ、それが本体だと錯覚した瞬間に、本体は消える。二度繰り返す言い回しに、諦めに近い苛立ちがこもっている。
この章句が説くこと
礼楽本質形式議論矮小化
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