酔古堂剣掃 / 集景・人を繪く者は其の情を繪く能はず
繪雪者,不能繪其清;繪月者,不能繪其明;繪花者,不能繪其香;繪風者,不能繪其聲;繪人者,不能繪其情。
新字:絵雪者,不能絵其清;絵月者,不能絵其明;絵花者,不能絵其香;絵風者,不能絵其声;絵人者,不能絵其情。
書き下し
雪を繪く者は、其の清きを繪く能はず。 月を繪く者は、其の明るきを繪く能はず。 花を繪く者は、其の香りを繪く能はず。 風を繪く者は、其の聲を繪く能はず。 人を繪く者は、其の情を繪く能はず。
現代語訳
雪を描く人は、その清らかさを描くことはできません。月を描く人は、その明るさを描くことはできません。花を描く人は、その香りを描くことはできません。風を描く人は、その音を描くことはできません。人を描く人は、その心を描くことはできません。
解説
絵画の限界を、五つの対象で示した一則です。雪の清らかさ、月の明るさ、花の香り、風の音と、どれも目に見える形を超えた、そのものの本質とも言える性質です。絵は形や色を写すことはできても、そうした本質を直接描き出すことはできないというのです。そして最後に人を挙げ、人の姿は描けても、その人の心の内までは描けないと結んでいます。この最後の一句で、話は絵画論から人間理解へと広がっていきます。人を外見や肩書きで理解したつもりになっても、その人の本当の思いまでは見えていないのかもしれません。相手の心に近づくには、形を写すこと以上の、時間をかけた付き合いが必要なのでしょう。
この章句が説くこと
風雅絵画人情本質理解
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