酔古堂剣掃 / 集景・鶴背より飛び下るが如し
四月有新筍、新茶、新寒豆、新含桃,綠陰一片,黃鳥數聲,乍晴乍雨,不暖不寒,坐間非雅非俗,半醉半醒,爾時如從鶴背飛下耳。
新字:四月有新筍、新茶、新寒豆、新含桃,緑陰一片,黄鳥数声,乍晴乍雨,不暖不寒,坐間非雅非俗,半酔半醒,爾時如従鶴背飛下耳。
書き下し
四月に新筍、新茶、新寒豆、新含桃有り、綠陰一片、黃鳥數聲、乍ち晴れ乍ち雨ふり、暖かならず寒からず、坐間は雅に非ず俗に非ず、半ば醉ひ半ば醒む、爾の時は鶴背より飛び下るが如きのみ。
現代語訳
四月には、新しい筍、新茶、新しい空豆、新しいさくらんぼがあります。一面の緑の木陰に、うぐいすの声がいくつか響き、晴れたかと思えば雨が降り、暖かくもなく寒くもなく、座の仲間は風雅すぎず俗すぎず、半ば酔い半ば醒めている。そんなときは、まるで仙人を乗せる鶴の背から地上に舞い降りたかのような心地です。
解説
初夏の四月の、何もかもがちょうどよい一日を描いた一則です。前半は、筍、新茶、寒豆、含桃と、この季節ならではの初物を並べています。寒豆は空豆やえんどう豆の類、含桃はさくらんぼのことです。後半は、晴れと雨、暖と寒、雅と俗、醉と醒と、どちらにも偏らない中ほどの状態を次々に挙げています。極端ではない、ちょうど中間のほどよさこそが心地よいという感覚です。鶴背より飛び下るは、鶴に乗って天を飛ぶ仙人が、この世に降りてきたかのような心地を言っています。仙境そのものではなく、仙境から降りてきたばかりの、この世の楽しみを味わう気分なのでしょう。旬の初物を囲む集まりは、今も変わらぬ喜びです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
閑適飲食中庸交友季節
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