酔古堂剣掃 / 集景・詩は言を盡さず畫は意を盡さず
結廬松竹之間,閑雲封戶;徙倚青林之下,花瓣沾衣。芳草盈階,茶煙幾縷;春光滿眼,黃鳥一聲。此時可以詩,可以畫,而正恐詩不盡言,畫不盡意。而高人韻士,能以片言數語盡之者,則謂之詩可,謂之畫可,謂高人韻士之詩畫亦無不可。集景第六。
新字:結廬松竹之間,閑雲封戸;徙倚青林之下,花瓣沾衣。芳草盈階,茶煙幾縷;春光満眼,黄鳥一声。此時可以詩,可以画,而正恐詩不尽言,画不尽意。而高人韻士,能以片言数語尽之者,則謂之詩可,謂之画可,謂高人韻士之詩画亦無不可。集景第六。
書き下し
廬を松竹の間に結べば、閑雲戶を封じ、青林の下に徙倚すれば、花瓣衣を沾す。 芳草階に盈ち、茶煙幾縷。春光眼に滿ち、黃鳥一聲。 此の時以て詩すべく、以て畫くべし、而れども正に詩は言を盡さず、畫は意を盡さざるを恐る。 而して高人韻士、能く片言數語を以て之を盡す者は、則ち之を詩と謂ふも可なり、之を畫と謂ふも可なり、高人韻士の詩畫と謂ふも亦た可ならざる無し。 集景第六。
現代語訳
松と竹のあいだに庵を結べば、のどかな雲が戸口を閉ざし、青い林の下をさまよい歩けば、花びらが衣を濡らします。香しい草がきざはしに満ち、茶を煮る煙が幾すじか立ちのぼります。春の光が目いっぱいに広がり、うぐいすが一声鳴きます。このようなときには詩にも詠めるし、絵にも描けます。けれども、詩では言い尽くせず、絵では心を描き尽くせないのではないかと恐れるのです。そこで、すぐれた人や風雅な人が、わずかな言葉でそれを言い尽くしたものは、詩と呼んでもよく、絵と呼んでもよく、すぐれた人や風雅な人の詩画と呼んでも、少しも差し支えありません。以上を集景第六とします。
解説

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