酔古堂剣掃 / 集素・物我兩つながら忘る
耳根似飆穀投響,過而不留,則是非俱謝;心境如月池浸色,空而不著,則物我兩忘。
新字:耳根似飆穀投響,過而不留,則是非倶謝;心境如月池浸色,空而不著,則物我両忘。
書き下し
耳根は飆穀の響きを投ずるに似て、過ぎて留めざれば、則ち是非俱に謝す。 心境は月池の色を浸すが如く、空しくして著かざれば、則ち物我兩つながら忘る。
現代語訳
耳は、つむじ風が谷に吹き込んで響きを返すのに似ています。音が通り過ぎたらそのまま留めておかなければ、善し悪しの評判もすべて去っていきます。心は、月が池の水にその色を映すようなものです。空っぽのままで何にも執着しなければ、外の物と自分との区別さえ忘れてしまいます。
解説
耳と心のあり方を、谷の響きと池の月にたとえた一則です。耳根は仏教で五感の器官を根と呼ぶところから来た言葉で、耳のことです。飆穀は風の吹く谷で、声がこだまして返っても、すぐに消えて何も残らない様子を表しています。人の噂や評判も、聞き流して心に留めなければ、是非はおのずから去っていきます。月池の喩えは、池は月を映しても月をつかまえず、月が去れば何も残さないことを言います。心もそのように空しく保てば、自他の対立も消えるというのです。菜根譚にもほぼ同じ句があります。悪口や批判を耳にしたときも、谷の響きのように通り過ぎさせる練習をしてみたいものです。
この章句が説くこと
修身心性無心仏教菜根譚
関連する章句
-
菜根譚・後集耳根は颷谷(ひょうこく)に響を投ずるに似たり。過ぎて留めずんば、則ち是非は倶に謝す。心境は月池に色を浸すが如し。空しくして着かずんば、則ち物我は両つながら忘る。
-
『酔古堂剣掃』集醒・眼前時に月到り風來る世上の塵氣を撥開すれば、胸中自ら火炎冰兢無し。 心中の鄙吝を消卻すれば、眼前時に月到り風來る有り。
-
『酔古堂剣掃』集靈・利刀もて水を割けば痕を留めず彩筆もて空を描けば、筆色を落さず、而して空も亦た染を受けず。利刀もて水を割けば、刀鍔を損はず、而して水も亦た痕を留めず。
-
『酔古堂剣掃』集素・心能く境を會す性虛に堪へざれば、天淵も亦た鳶魚の擾を受く。 心能く境を會すれば、風塵も還た煙霞の娛を結ぶ。
-
『酔古堂剣掃』集倩・欲無き者は其の言清し欲無き者は其の言清く、累無き者は其の言達す。 口耳人に巽へば、靈竅忽ち啟く、故に曰く、俗情の染むる所と為らずして、方に能く法を說きて人を度す、と。
-
『酔古堂剣掃』集法・枯寂も亦た心を槁らすの地紛擾は固より志を溺らすの場なるも、枯寂も亦た心を槁らすの地なり。故に學者は當に心を玄默に棲ませ、以て吾が真體を寧んずべく、亦た當に志を恬愉に適はせ、以て吾が圓機を養ふべし。