酔古堂剣掃 / 集素・人の自ら取るは則ち異なる
長亭煙柳,白髮猶勞,奔走可憐名利客:野店溪雲,紅塵不到,逍遙時有牧樵人。天之賦命實同,人之自取則異。
新字:長亭煙柳,白髪猶労,奔走可憐名利客:野店渓雲,紅塵不到,逍遥時有牧樵人。天之賦命実同,人之自取則異。
書き下し
長亭の煙柳、白髮猶ほ勞し、奔走す憐れむべき名利の客。 野店の溪雲、紅塵到らず、逍遙す時に牧樵の人有り。 天の命を賦くるは實に同じく、人の自ら取るは則ち異なる。
現代語訳
宿場のもやに煙る柳の下を、白髪になってもなお苦労して走り回るのは、哀れな名誉と利益を追う旅人です。野中の茶店に谷の雲がかかり、俗世の塵も届かないところを、ときおりのんびり歩くのは牛飼いや木こりです。天が人に与えた命はまったく同じなのに、人が自分で選び取る生き方は、これほど違うのです。
解説
同じ道の風景の中で、二種類の人生を並べてみせた一則です。長亭は街道沿いに旅人のため設けられた休み所で、別れの場でもありました。そこを白髪頭で奔走する名利の客と、紅塵、すなわち俗世の喧騒の届かない野店をぶらつく牧童や木こりとが対になっています。最後の二句がこの則の要で、天から与えられた命は同じでも、どう生きるかは本人の選び方次第だと言い切ります。名利を追うこと自体より、白髪になってもなお止まれないことへの憐れみがにじんでいます。年齢を重ねたとき、自分は何のために走っているのかを時々問い直してみたいものです。
この章句が説くこと
処世名利清貧選択人生
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