酔古堂剣掃 / 集素・此れは是れ山林の經濟なり
口中不設雌黃,眉端不挂煩惱,可稱煙火神仙;隨意而栽花柳,適性以養禽魚,此是山林經濟。
新字:口中不設雌黄,眉端不挂煩悩,可称煙火神仙;随意而栽花柳,適性以養禽魚,此是山林経済。
書き下し
口中に雌黃を設けず、眉端に煩惱を挂けざれば、煙火の神仙と稱すべし。 意に隨ひて花柳を栽ゑ、性に適ひて以て禽魚を養ふ、此れは是れ山林の經濟なり。
現代語訳
口先で好き勝手に人を評したり言い直したりせず、眉のあたりに悩みの色を浮かべなければ、俗世の炊煙の中に暮らす仙人と呼んでよいでしょう。気の向くままに花や柳を植え、生き物の性分に合わせて鳥や魚を飼う。これこそが山林における世の治め方です。
解説
世俗の中で仙人のように暮らす道と、山林での暮らしの営みを述べた対句です。雌黄は昔、文字の誤りを塗り消すのに用いた黄色の顔料で、晋の王衍が意見を気ままに改めたことから、口から出まかせを言うことを口中の雌黄と言います。眉端に煩悩を挂けずとは、悩みを顔に出さないことです。煙火は炊事の煙、つまり俗世の暮らしで、煙火の神仙は俗世にいながら仙人のように自由な人を言います。経済はもとは経世済民、つまり世を治め民を救うことです。山林の経済とは、花を植え鳥や魚を育てることが隠者にとっての治世だという、ユーモアを込めた言い方です。口と顔を慎み、身近な命を大切に育てる。それが自分なりの世の治め方なのです。
この章句が説くこと
言葉隠逸閑適神仙処世
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十子細は信玄公わかうまします時より、諸侍のことばをよくきゝ、分別あるも、なきも、つよからんも、よはからんも其人の物いふ儀にてつもり被成たるが、今日にいたるまでも、それがしむけんならくへ堕罪仕らん、少もあひちがはず候、さるほどに、よき事をもほめ所を見いだし、聞付穿鑿の取さたをもつて善をば善と定め、悪をば悪とさだめ、道理をつめてほめそしる武士の作法なり、さなくして、かたはし聞て我贔負の者を虚空によきとばかり批判する事女にあひにたる侍、と信玄公の常々御諚これなり、如此有様にせんさくあそばす故、若手に能武士出くるなりと阿部加賀守申て、金丸助六郎·同惣蔵にをしゆる也、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一宋土の寺院なんどには都て雑談をせざれば、其やうなること、をも云はざるなり、吾が国も近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも此の如きの言語出来らず、滅後にも存世の時の弟子等、少々残りとヾまりたりし時は一切に云はざりき、近ごろ此の七八年より以来、今ま出の若き人たち時々談ずるなり、存外の次第なり、聖教の中にも麁强悪業令人覚悟無利言説能障正道とありて、只うち出して云処の言ばすら、無利の言説は障道の因縁なり況やかくの如きの言語は、ことばに引れて即ち心も起りつべし、最も用心すべきなり、故さらにかくなん云はじとせずとも、悪きことゝ知りなば漸々に退治すべきなり、
-
人物志・八觀其の言甚だ懌べども、精色従わざる者は、中に違う有るなり。其の言違う有れども、精色信ずべき者は、辞の敏ならざるなり。
-
『正法眼蔵随聞記』巻一雑話の次でに云く、世間の男女老少多く交会姪色等の事を談ず、是を以て心を慰むるとし、興言とすることあり、一旦意をも遊戯し、徒然も慰むるに似たりと云ふとも、僧はもつとも禁断すべきことなり、俗猶よき人、まことしき人の、礼儀をも存じ、げにげにしき談の時、出来らざることなり、只乱酔放逸なる時の談なり、況や僧は専ら仏道を思ふべし、雑語は希有異体の乱僧の云ふことなり、
-
論語・顔淵篇司馬牛、仁を問う。子曰く、「仁者は、其の言や訒し。」曰く、「其の言や訒しければ、斯れ之を仁と謂うか。」子曰く、「之を為すこと難し、之を言うこと訒きこと無きを得んや。」
-
『甲陽軍鑑』品第六如此の三楽も無果報〓にや終に一国とはたもたず、彼の三楽信玄公の背語申つることを聞て弥三楽を高上に存する也、古語に曰く、金以火ヲ試ミ人ハ以言ヲ試ム云々、人の善悪を云にて、其の者の行何計の者也としる可、人は人をほむるもそしるも大切ならん、九思一言ことはにけがのなきが実の武士ならん、