酔古堂剣掃 / 集素・雅士の高盟は詩を題し翰を揮ふに在らず
幽人清課,詎但啜茗焚香;雅士高盟,不在題詩揮翰。
書き下し
幽人の清課は、詎ぞ但だ茗を啜り香を焚くのみならんや。 雅士の高盟は、詩を題し翰を揮ふに在らず。
現代語訳
隠れ住む人の清らかな日課は、どうしてただ茶をすすり香を焚くことだけでしょうか。風雅な人の高尚な交わりの誓いは、詩を書きつけたり筆をふるったりすることにあるのではありません。
解説
風雅の本質は形ではなく心にあると説いた対句です。幽人は世を避けて静かに暮らす人、清課は清らかな日課です。詎は反語で、どうしてただそれだけだろうかという意味です。茶をすすり香を焚くことは隠者の暮らしの定番ですが、それをしているだけで隠者の心が備わるわけではありません。雅士は風雅な人、高盟は高尚な交わりの約束、揮翰は筆をふるって書くことです。詩を詠み書を書くのは文人の交わりの形ですが、交わりの本当の価値は、心が通い合うことにあります。趣味や習い事でも、形をまねるだけで満足していないか。その奥にある心を磨くことの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
風雅清雅交友茶本質
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