酔古堂剣掃 / 集素・真景に向かふ處に景を點ずべからず
只宜於著意處寫意,不可向真景處點景。
新字:只宜於著意処写意,不可向真景処点景。
書き下し
只だ宜しく意を著くる處に於て意を寫すべし、真景に向かふ處に景を點ずべからず。
現代語訳
心を込めるべきところで心を描くのがよいのであって、本物の景色があるところに、わざわざ景色を描き加えてはいけません。
解説
絵画の心得を借りて、表現の急所を述べた一則です。写意は形をそっくり写すのではなく、心や趣を描き出すことで、中国の文人画で重んじられた考え方です。著意は心を注ぐことです。点景は風景画の中に人物や小舟などを添えて描くことです。すでに美しい実景があるところに余計なものを描き加えれば、かえってその美しさを損ないます。表現は、心を込めるべきところに集中してこそ生きるのです。これは絵に限らず、文章や企画、話し方にも通じます。伝えたい核心に力を注ぎ、それ自体で十分なところには手を加えない。何を描き、何を描かないかを見極めることが、表現の質を決めるのです。
この章句が説くこと
芸術絵画表現風雅写意
関連する章句
-
『酔古堂剣掃』集靈・畫家の妙は筆を運らすの先に在り畫家の妙は、皆筆を運らすの先、思ひを運らすの際に在り。 一たび點染を經れば便ち機神を減ず。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・世に最も悲しむべき三つのこと茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する。茶にもいろいろある、絵画に傑作と駄作と――概して後者――があると同様に。と言っても、立派な茶をたてるのにこれぞという秘法はない、ティシアン、雪村のごとき名画を作製するのに何も規則がないと同様に。茶はたてるごとに、それぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親和力を持ち、世々相伝の追憶を伴ない、それ独特の話しぶりがある。真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。宋の詩人李仲光は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた。すなわち、誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するもの、これである。
-
『茶の本』第六章 花・不必要な物の微妙な用途春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することは、どうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
-
論語・八佾篇子夏問いて曰く、「巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の謂ぞや」と。子曰く、「絵事は素より後にす」と。曰く、「礼は後か」と。子曰く、「予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ」と。
-
『酔古堂剣掃』集靈・古今の絕藝を收めて山窗に置く滄海の日、赤城の霞、蛾眉の雪、巫峽の雲、洞庭の月、瀟湘の雨、彭蠡の煙、廣凌の濤、廬山の瀑布、宇宙の奇觀を合はせて、吾が齋壁に繪く。少陵の詩、摩詰の畫、左傳の文、馬遷の史、薛濤の箋、右軍の帖、南華經、相如の賦、屈子の離騷、古今の絕藝を收めて、我が山窗に置く。
-
『茶の本』第七章 茶の宗匠・芸術においては現在が永遠である宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは、茶室において得た風流の高い軌範によって、彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子など、すべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちは、ただの芸術家以上のもの、すなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば、完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。