茶の本 / 第二章 茶の諸流・世に最も悲しむべき三つのこと
茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する。茶にもいろいろある、絵画に傑作と駄作と――概して後者――があると同様に。と言っても、立派な茶をたてるのにこれぞという秘法はない、ティシアン、雪村のごとき名画を作製するのに何も規則がないと同様に。茶はたてるごとに、それぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親和力を持ち、世々相伝の追憶を伴ない、それ独特の話しぶりがある。真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。宋の詩人李仲光は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。
書き下し
茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する。茶にもいろいろある、絵画に傑作と駄作と――概して後者――があると同様に。と言っても、立派な茶をたてるのにこれぞという秘法はない、ティシアン、雪村のごとき名画を作製するのに何も規則がないと同様に。茶はたてるごとに、それぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親和力を持ち、世々相伝の追憶を伴ない、それ独特の話しぶりがある。真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。宋の詩人李仲光は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた。すなわち、誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するもの、これである。
現代語訳
茶は芸術品ですから、そのもっとも気高い味を出すには名人が要ります。茶にもいろいろあります。絵画に傑作と駄作が、おおむね後者が多いのですが、あるのと同じです。とはいえ、立派な茶をたてるのにこれという秘法はありません。ティツィアーノや雪村のような名画を作るのに何の規則もないのと同じです。茶はたてるごとにそれぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親しみを持ち、代々伝わる記憶を伴い、それ独特の語り口があります。真の美は必ず常にここにあります。芸術と人生のこの単純で根本的な法則を社会が認めないために、私たちは何という損失を被っていることでしょう。宋の詩人・李仲光は、世でもっとも悲しむべきことが三つあると嘆きました。すなわち、誤った教育によって立派な青年を損なうこと、鑑賞が俗悪なために名画の価値を減らすこと、手際が悪いために立派な茶をまったく無駄にすること、これです。
解説
この章句が説くこと
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