酔古堂剣掃 / 集靈・畫家の妙は筆を運らすの先に在り
畫家之妙,皆在運筆之先,運思之際;一經點染便減機神。
新字:画家之妙,皆在運筆之先,運思之際;一経点染便減機神。
書き下し
畫家の妙は、皆筆を運らすの先、思ひを運らすの際に在り。 一たび點染を經れば便ち機神を減ず。
現代語訳
画家のすばらしさは、すべて筆を動かす前、思いをめぐらしているその時にあります。ひとたび筆で描き色を付けると、たちまち生き生きとした霊妙さが減ってしまいます。
解説
作品の命は描く前の構想の中にあると説いた一則です。運筆は筆を運ぶこと、運思は思いをめぐらすことです。点染は点を打ち色をにじませること、つまり実際に描くことを指します。機神は生きた働きと霊妙な気配のことです。心の中に思い描いたものは完全ですが、形にした途端に何かがこぼれ落ちるという、創作に携わる人なら誰しも覚えのある感覚が語られています。ただ、これは描くなということではなく、描く前の思いを深く練ることの大切さを言うと読めます。仕事でも、手を動かす前の構想にこそ時間をかける価値があります。
この章句が説くこと
芸術構想風雅創作絵画
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