茶の本 / 第六章 花・不必要な物の微妙な用途
春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
書き下し
春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することは、どうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
現代語訳
春の夜明けの震えるような薄明かりに、小鳥が木の間でわけありげな調子でささやいているとき、皆さんは彼らが連れ合いに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人について見れば、花を愛でることは、どうやら恋の詩と同じ時期に起こっているようです。意識しないゆえに麗しく、沈黙しているために香しい花の姿以外に、どこに乙女の心が解ける姿を想像できるでしょう。原始時代の人は、恋人に初めて花輪を捧げたとき、それによって獣の性を脱しました。彼はこうして、粗野な自然の必要を超えて人間らしくなったのです。彼が不必要な物の微妙な用途を認めたとき、彼は芸術の国に入ったのです。
解説
第六章の出だしで、芸術の起源が定義されます。不必要な物の微妙な用途を認めたとき、人は芸術の国に入った。食べられない花を恋人に贈った瞬間に、人は獣でなくなったというのです。役に立たないものを大切にする能力を、人間性の指標とする見方で、この本全体の底にある考えでもあります。花という最も脆く実用から遠いものを主題に、六章目が始まります。
この章句が説くこと
花芸術起源無用人間性
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