酔古堂剣掃 / 集素・千岩秀を競ひ萬壑流れを爭ふ
潭澗之間,清流注瀉,千岩競秀,萬壑爭流,卻自胸無宿物,漱清流,令人濯濯清虛,日來非惟使人情開滌,可謂一往有深情。
新字:潭澗之間,清流注瀉,千岩競秀,万壑争流,却自胸無宿物,漱清流,令人濯濯清虚,日来非惟使人情開滌,可謂一往有深情。
書き下し
潭澗の間、清流注ぎ瀉ぎ、千岩秀を競ひ、萬壑流れを爭ふ。 卻つて自ら胸に宿物無く、清流に漱げば、人をして濯濯として清虛ならしむ。 日來惟だに人の情をして開滌せしむるのみに非ず、一往深情有りと謂ふべし。
現代語訳
淵と谷川の間には清らかな流れが注ぎ落ち、千の岩が美しさを競い、万の谷が流れを争っています。すると胸の中にわだかまりが何も残らなくなり、清流で口をすすげば、人をすがすがしく清らかでとらわれのない心にしてくれます。日々ここに来ると、人の心を開いて洗い清めてくれるだけでなく、ひとたび触れれば深い情が湧き起こると言うべきでしょう。
解説
渓谷の清流に心を洗われる喜びを、『世説新語』の名句をつなぎ合わせて描いた一則です。千岩競秀、万壑争流は、東晋の画家顧愷之が会稽の山水の美しさを問われて答えた言葉として名高いものです。胸無宿物は胸に何のわだかまりもないこと、漱清流は清流で口をすすぐことです。濯濯は洗われたようにすがすがしいさまです。人の情を開滌するとは、心を開き洗い清めることで、これも『世説新語』に見える山水をたたえる表現です。一往有深情は、ひとたび心が向かうと深い情が湧くという意味で、東晋の謝安が音楽を愛する桓伊を評した言葉です。古人の言葉を借りながら、自然が人の心を洗う力を重ねて歌っています。
この章句が説くこと
山水自然清虚世説新語心境
関連する章句
-
『酔古堂剣掃』集靈・千岩秀を競ひ萬壑流れを爭ふ千岩秀を競ひ、萬壑流れを爭ふ、草木其の上に蒙籠として、雲興り霞蔚むが若し。
-
『酔古堂剣掃』集景・清くして齒を漱ぐべし密竹雲を軼ぎ、長林日を蔽ふ、淺翠嬌青、煙を籠め濕を惹く。 數椽を其の間に構へ、竹樹を籬と為し、復た垣を葺かず。 中に一泓の流水有り、清くして齒を漱ぐべく、曲りて觴を流すべし。 其の間に放歌すれば、離披蒨郁、神滌はれ意閑かなり。
-
『酔古堂剣掃』集豪・局上の山河嶽色江聲、胸中の邱壑を富まし煞し、 松陰花影、局上の山河を爭ひ殘す。
-
『酔古堂剣掃』集景・流水を聽き激湍を看る長松怪石、墟落を去ること一二十里を下らず。 鳥徑崖に緣り、水を草莽の間に涉る。 數四左右、兩三家相望み、雞犬の聲相聞ゆ。 竹籬草舍、其の間に燕處し、蘭菊之を藝ゑ、霜月春風、日に餘思有り。 水に臨みて時に桃梅を種ゑ、兒童婢仆皆布衣短褐にして、以て薪水を給し、村酒を釀して之を飲む。 案に詩書、莊周、太玄、楚辭、黃庭、陰符、楞嚴、圓覺有り、數十卷のみ。 藜を杖つき屐を躡み、窮谷大川に往來し、流水を聽き、激湍を看、澄潭を鑒み、危橋を步み、茂樹に坐し、幽壑を探り、高峰に升る、亦た樂しからずや。
-
『酔古堂剣掃』集素・一山波中に映在す霜水澄定し、凡そ懸崖峭壁、古木垂蘿、片雲纖月と、一山波中に映在す。 杖を策きて之に臨めば、心境俱に清絕なり。
-
『酔古堂剣掃』集素・閒かに落花を掃へば人の懷ひを散ず林泉の滸、風萬點を飄へし、清露晨に流れ、新桐初めて引く。 蕭然として事無く、閒かに落花を掃へば、人の懷ひを散ずるに足る。