酔古堂剣掃 / 集素・閒なる者便ち是れ主人
江山風月,本無常主,閒者便是主人。
書き下し
江山風月、本常主無し、閒なる者便ち是れ主人なり。
現代語訳
川や山、風や月には、もともと決まった持ち主はいません。それを味わう暇のある者こそが、その主人なのです。
解説
宋の蘇軾の言葉として知られる一則です。江山風月は、川と山、風と月で、自然の美しさ全体を指します。常主は決まった持ち主のことです。どんなに美しい景色も、誰かの所有物ではありません。お金や権力で買い占めることもできません。それを本当に自分のものにできるのは、立ち止まってそれを味わう閑、つまり心のゆとりを持った人だけです。蘇軾は政争に巻き込まれて左遷を重ねましたが、流謫の地でもこうした心境で自然を楽しみました。忙しさに追われていると、目の前の夕焼けにも気づかないものです。心のゆとりさえあれば、誰もが天地の美しさの主人になれるのです。
この章句が説くこと
閑適自然蘇軾風月心境
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