酔古堂剣掃 / 集素・諸葛の七擒は南陽に膝を抱くに似ず
阿衡五就,那如莘野躬耕;諸葛七擒,爭似南陽抱膝。
新字:阿衡五就,那如莘野躬耕;諸葛七擒,争似南陽抱膝。
書き下し
阿衡の五たび就くは、那ぞ莘野に躬ら耕すに如かん。 諸葛の七たび擒ふるは、爭か南陽に膝を抱くに似ん。
現代語訳
阿衡(殷の伊尹)が五度も仕えに出向いたことは、どうして莘の野で自ら耕していた頃に及びましょうか。諸葛亮が七度も敵将を捕らえたことは、どうして南陽で膝を抱いて歌っていた頃に及びましょうか。
解説
歴史に名高い二人の賢相を挙げ、功業よりも隠棲の日々こそ尊いと言った対句です。阿衡は殷の湯王を助けた宰相伊尹の官名で、『孟子』告子篇には、伊尹が湯王のもとへ五たび、夏の桀王のもとへ五たび赴いたとあります。伊尹は仕える前、有莘の野で自ら耕していました。諸葛亮は蜀の宰相で、南方の孟獲を七たび捕らえて七たび放したと伝えられます。出仕する前は南陽の隆中で耕し、膝を抱いて梁父吟を歌ったといいます。大きな功績の裏にある苦労と、名もなき日々の静けさと、どちらが幸せか。成功だけを人生の価値としない見方を示しています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
隠逸功名諸葛亮躬耕処世
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