酔古堂剣掃 / 集靈・簾を隔てて月を看る
灘濁作畫,正如隔簾看月,隔水看花,意在遠近之間,亦文章法也。
新字:灘濁作画,正如隔簾看月,隔水看花,意在遠近之間,亦文章法也。
書き下し
灘濁もて畫を作すは、正に簾を隔てて月を看、水を隔てて花を看るが如し、意は遠近の間に在り、亦た文章の法なり。
現代語訳
にじませたような濁った墨で絵を描くのは、ちょうど簾ごしに月を眺め、水をへだてて花を眺めるようなもので、その趣は遠さと近さのあいだにあります。これはまた文章を書く方法でもあります。
解説
はっきり描きすぎない表現の趣を述べた一則です。灘濁は意味のとりにくい語ですが、墨をにじませ、ぼかした筆づかいのことと解しました。簾ごしの月、水をへだてた花は、どちらもくっきりとは見えないからこそ、かえって想像をかき立て、趣が深まるものです。意は遠近の間に在りとは、近すぎず遠すぎない、ほどよい距離感にこそ味わいがあるということです。そして、これは文章にも通じると結んでいます。すべてを説明し尽くす文章より、少し余白を残した文章のほうが、読む人の心に長く残ります。伝えるときは、あえて言い過ぎない工夫も大切です。
この章句が説くこと
書画文章余白風雅表現
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