酔古堂剣掃 / 集靈・熱惱清涼は原只だ心境に在り
折膠鑠石,雖累變於歲時;熱惱清涼,原只在於心境。所以佛國都無寒暑,仙都長似三春。
新字:折膠鑠石,雖累変於歳時;熱悩清涼,原只在於心境。所以仏国都無寒暑,仙都長似三春。
書き下し
膠を折り石を鑠かすは、歲時に累變すと雖も、熱惱清涼は、原只だ心境に在り。所以に佛國には都て寒暑無く、仙都は長く三春に似たり。
現代語訳
膠が折れるほどの寒さも、石が溶けるほどの暑さも、季節によって次々と移り変わりますが、熱い悩みも清らかな涼しさも、もともとただ心の状態にあるものです。だから仏の国にはまったく寒さ暑さがなく、仙人の都はいつも春の三か月のようなのです。
解説
寒さ暑さを感じ分けるのは結局は心だと説く一則です。折膠は膠も折れるほどの厳寒、鑠石は石も溶けるほどの酷暑を言います。熱惱は心を焼く煩悩の苦しみ、清涼はそこから解き放たれた安らぎで、どちらも仏教の言葉です。季節は移り変わっても、心が安らいでいれば暑さも寒さも苦にならないと言います。仏国や仙都に寒暑がないのは、そこに住む者の心が澄んでいるからだという理屈です。菜根譚にも、暑さを除かなくても熱悩を除けば身は常に清涼の台上にある、というよく似た句があります。気温は変えられなくても、心の持ち方を変えることで過ごしやすさは変わります。
この章句が説くこと
心境仏教煩悩季節修身
関連する章句
-
『酔古堂剣掃』集峭・身は清涼の世界に住す煩惱の場空しければ、身は清涼の世界に住し;營求の念絕ゆれば、心は自在の乾坤に歸す。
-
『酔古堂剣掃』集靈・先づ熱惱を除くに若かず池を擇びて涼を納るるは、先づ熱惱を除くに若かず。鞭を執りて富を求むるは、何ぞ急ぎ窮愁を遣るに如かん。
-
『酔古堂剣掃』集醒・熱地に於いて冷を思ふ能く熱地に於いて冷を思へば、則ち一世淒涼を受けず。能く淡處に於いて濃を求むれば、則ち終身枯槁に落ちず。
-
『酔古堂剣掃』集醒・嗜欲の場中には肝腸冷ややかに苦惱の世上には、意氣須らく溫かなるべし。嗜欲の場中には、肝腸冷ややかならんことを欲す。
-
『酔古堂剣掃』集素・水觀を作す暑中嘗て默坐し、心を澄まし目を閉ぢ、水觀を作すこと之を久しうすれば、肌發灑灑として、幾閣の間に爽氣有るに似たるを覺ゆ。
-
菜根譚・後集熱は必ずしも除かず。而して此の熱悩を除かば、身は常に清涼台上に在り。窮は遣るべからず。而して此の窮愁を遣らば、心は常に安楽窩中に居る。