酔古堂剣掃 / 集靈・冥官は詞賦を受けず
聰明而修潔,上帝固錄清虛;文墨而貪殘,冥官不受詞賦。
新字:聰明而修潔,上帝固録清虚;文墨而貪残,冥官不受詞賦。
書き下し
聰明にして修潔なれば、上帝固より清虛を錄す。文墨にして貪殘なれば、冥官詞賦を受けず。
現代語訳
聡明で身の行いが清らかであれば、天帝はもとよりその清らかな心を帳簿に記してくださいます。文章に長じていても欲深く残酷であれば、冥界の役人はその詩や賦を受けつけません。
解説
才能より人柄が問われることを、天帝と冥官を持ち出して言った対句です。修潔は身を修めて潔いこと、清虛は清らかで欲のない心です。文墨は文章を書く才、貪殘は欲深くむごいことです。詞賦は詩文のことで、どれほど美しい作品を書いても、行いが悪ければあの世では何の弁明にもならないと言います。文人の多い時代に、文才を鼻にかけて悪事を働く者への警告と読めます。どんなに能力や実績があっても、人としての誠実さが欠けていれば最後には評価されないという教えは、今の職場にもそのまま当てはまります。
この章句が説くこと
修身清廉人格文才因果
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