酔古堂剣掃 / 集靈・一座の活地獄
無事而憂,對景不樂,即自家亦不知是何緣故,這便是一座活地獄,更說甚麼銅床鐵柱,劍樹刀山也。
新字:無事而憂,対景不楽,即自家亦不知是何縁故,這便是一座活地獄,更説甚麼銅床鉄柱,剣樹刀山也。
書き下し
事無くして憂へ、景に對して樂しまず、即ち自家も亦是れ何の緣故なるかを知らず、這れ便ち是れ一座の活地獄なり、更に甚麼の銅床鐵柱、劍樹刀山を說かんや。
現代語訳
何事もないのに憂え、美しい景色を前にしても楽しめず、自分でもそれがなぜなのかわからない。これこそが生きながらの地獄です。このうえ銅の寝台や鉄の柱、剣の樹や刀の山(仏典の説く地獄の責め苦)などを持ち出す必要がどこにあるでしょうか。
解説
理由のない憂鬱こそが生き地獄だと言い切った一則です。這便是や甚麼は明代の口語で、話し言葉のような勢いがあります。銅床鉄柱や剣樹刀山は、仏教の説く地獄で罪人が責められる道具立てです。死後の地獄を恐れるよりも、今この心が晴れないことのほうが、よほど地獄だというのです。地獄も極楽も心の中にあるという見方は、禅の考え方とも通じます。原因のわからない気分の沈みは、心身の不調の表れである場合もあり、一人で抱えこまず休むことや人に話すことも大切です。まず自分の心の状態に気づくことが、抜け出す第一歩になります。
この章句が説くこと
心境仏教憂い地獄修身
関連する章句
-
『酔古堂剣掃』集醒・詩酒も人に徇へば地獄なり山棲は是れ勝事なるも、稍一たび縈戀すれば、則ち亦た市朝なり。書畫の賞鑒は是れ雅事なるも、稍一たび貪癡すれば、則ち亦た商賈なり。詩酒は是れ樂事なるも、少しく一たび人に徇へば、則ち亦た地獄なり。客を好むは是れ豁達の事なるも、一たび俗子の撓す所と為れば、則ち亦た苦海なり。
-
『酔古堂剣掃』集靈・熱惱清涼は原只だ心境に在り膠を折り石を鑠かすは、歲時に累變すと雖も、熱惱清涼は、原只だ心境に在り。所以に佛國には都て寒暑無く、仙都は長く三春に似たり。
-
『酔古堂剣掃』集靈・錦衣厚味も只だ萬狀の愁苦を覺ゆ清閒にして事無く、坐臥心に隨へば、粗衣淡食と雖も、自ら一段の真趣有り。紛擾して寧からず、憂患身に纏へば、錦衣厚味と雖も、只だ萬狀の愁苦を覺ゆ。
-
『酔古堂剣掃』集法・境境都て會心有り精神清旺なれば、境境都て會心有り。 志氣昏愚なれば、處處俱に夢幻と成る。
-
『酔古堂剣掃』集奇・愁ひは一種に非ず愁ひは一種に非ず、春愁は則ち天愁へ地愁ふ。怨みに千般有り、閨怨は則ち人怨み鬼怨む。天懶く雲沈み、雨昏く花蹙まる、法界豈に愁雲少なからんや。石頹れ山瘦せ、水枯れ木落つ、大地も窘況多きを覺ゆ。
-
『酔古堂剣掃』集峭・身は清涼の世界に住す煩惱の場空しければ、身は清涼の世界に住し;營求の念絕ゆれば、心は自在の乾坤に歸す。