酔古堂剣掃 / 集醒・善言を進め善言を受く
進善言,受善言,如兩來舩,則相接耳。
新字:進善言,受善言,如両来舩,則相接耳。
書き下し
善言を進め、善言を受くるは、兩來の舩の如し、則ち相接するのみ。
現代語訳
善い言葉を進言することと、善い言葉を受け入れることは、両方から近づいてくる二艘の舟のようなもので、そうしてはじめて互いに接することができるのです。
解説
忠告がうまく届くためには、言う側と聞く側の双方の歩み寄りが必要だと説く一則です。両来の船とは、向こうとこちらから互いに近づいてくる二艘の舟のことです。片方だけが進んでも、もう片方が遠ざかれば舟は出会えません。同じように、どれほど善い言葉を進めても、相手に受け入れる姿勢がなければ届きません。逆に、受け入れる気持ちがあっても、進める側が言い方を工夫しなければ伝わりません。助言や提案が通らないとき、私たちはつい相手の聞く耳のなさを責めがちです。しかし自分の伝え方にも工夫の余地がないか、そして自分が人の言葉を受ける側に立ったとき、舟を近づけているかを振り返りたいものです。
この章句が説くこと
忠言傾聴交友謙虚処世
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