酔古堂剣掃 / 集醒・俠の一字
俠之一字,昔以之加意氣,今以之加揮霍,只在氣魄氣骨之分。
新字:侠之一字,昔以之加意気,今以之加揮霍,只在気魄気骨之分。
書き下し
俠の一字、昔は之を以て意氣に加へ、今は之を以て揮霍に加ふ。只だ氣魄と氣骨との分に在り。
現代語訳
「俠」という一字は、昔は意気に感じて人のために尽くすことに冠せられましたが、今は金を湯水のように使うことに冠せられています。その違いは、ただ気魄と気骨の違いにあるのです。
解説
任俠という言葉の意味の変化を通して、世の中の価値観の移ろいを嘆いた一則です。昔の俠は、義を重んじ、意気に感じて弱きを助け、身を惜しまずに人に尽くすことを指しました。ところが今では、派手に金をばらまく揮霍、つまり浪費ぶりが俠と呼ばれていると言います。その分かれ目は、気魄と気骨の違いだというのです。ここでは、外に向かって勢いよく発散する力と、内に筋を通して折れない力とを区別していると読めます。気前のよさや豪快さそのものが悪いわけではありませんが、その根に筋の通った志があるかどうかが問われます。見た目の豪快さと、内に秘めた骨の太さを見分ける目を持ちたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
任侠気骨義豪放処世
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『春秋左氏伝』昭公三年 趙文子、州を取らず夏、四月、鄭伯晉に如く。公孫段相たり。甚だ敬にして卑し、禮違ふ者無し。晉侯焉を嘉し、之に授くるに策を以ってして曰く、「子豐晉國に勞有り。余聞きて忘れず。女に州の田を賜ひ、以って乃(なんぢ)の舊勳に胙(むく)いん」と。伯石再拜稽首し、策を受けて以って出づ。君子曰く、「禮は其れ人の急なるか。伯石の汏(おご)れるや、一たび晉に禮を為して、猶ほ其の祿を荷ふ。況んや禮を以って終始するをや。詩に曰く、『人にして禮無くんば、胡ぞ遄やかに死せざる』と。其れ是を之れ謂ふか」と。初め、州縣は欒豹の邑なり。欒氏亡ぶるに及び、范宣子・趙文子・韓宣子、皆之を欲す。文子曰く、「溫は吾が縣なり」と。二宣子曰く、「郤稱より以って別れて三傳す。晉の別縣は、唯だ州のみならず。誰か獲て之を治めん」と。文子之を病み、乃ち之を舍つ。二子曰く、「吾以って正議して自ら與ふ可からず」と。皆之を舍つ。文子政を為すに及び、趙獲曰く、「以って州を取る可し」と。文子曰く、「退け。二子の言は義なり。義に違ふは禍なり。余は余が縣を治むる能はず、又焉んぞ州を用ゐん。其れ以って禍を徼(まね)かん。君子曰く、『知らざるは實に難し。知りて從はざるは、禍焉より大なるは莫し』と。州を言ふ有らば必ず死せん」と。豐氏は故(もと)より韓氏に主たり。伯石の州を獲るや、韓宣子之が為に之を請ふ。其の復た之を取るが為の故なり。
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