酔古堂剣掃 / 集醒・山林の樂しみを譚ずる者
譚山林之樂者,未必真得山林之趣;厭名利之談者,未必盡忘名利之情。
新字:譚山林之楽者,未必真得山林之趣;厭名利之談者,未必尽忘名利之情。
書き下し
山林の樂しみを譚ずる者は、未だ必ずしも真に山林の趣を得ず。名利の談を厭ふ者は、未だ必ずしも盡く名利の情を忘れず。
現代語訳
山林の暮らしの楽しさを語る人が、必ずしも本当に山林の趣を味わっているとは限りません。名声や利益の話を嫌う人が、必ずしも名声や利益への思いをすっかり忘れているとは限りません。
解説
口に出す言葉と、心の実際とのずれを指摘した対句です。菜根譚にもほぼ同じ句があります。隠遁の楽しみを熱心に語る人は、かえってその楽しみを外から憧れているだけかもしれません。名利の話を嫌がる人は、実はまだ名利が気になっているからこそ、話題を避けているのかもしれません。本当に山林の趣を得た人はそれを語る必要を感じず、名利を忘れた人はその話を聞いても心が動かないはずです。これは他人を見るときの目安であると同時に、自分を省みる鏡でもあります。あることを強く否定したり熱心に語ったりするとき、その裏にどんな思いがあるのかを、ときどき見つめ直してみたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
隠逸名利自省修身言行
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