呻吟語 / 外篇・治道・其の自然の機に觸れて自然の情を鼓す
物理人情,自然而已。聖人得其自然者以觀天下,而天下之人不能逃聖人之洞察;握其自然者以運天下,而天下之人不覺為聖人所斡旋。即其軌物所繩於矯拂,然拂其人欲自然之私,而順其天理自然之公。故雖有倔強錮蔽之人,莫不憬悟而馴服,則聖人觸其自然之機而鼓其自然之情也。
新字:物理人情,自然而已。聖人得其自然者以観天下,而天下之人不能逃聖人之洞察;握其自然者以運天下,而天下之人不覚為聖人所斡旋。即其軌物所縄於矯払,然払其人欲自然之私,而順其天理自然之公。故雖有倔強錮蔽之人,莫不憬悟而馴服,則聖人触其自然之機而鼓其自然之情也。
書き下し
物理人情は、自然なるのみ。聖人は其の自然なる者を得て以て天下を觀る。而して天下の人は聖人の洞察を逃るる能はず。其の自然なる者を握りて以て天下を運らす。而して天下の人は聖人の斡旋する所と為るを覺えず。即ち其の軌物の矯拂に繩る所なるも、然れども其の人欲自然の私に拂ひて、其の天理自然の公に順ふ。故に倔強錮蔽の人有りと雖も、憬悟して馴服せざる莫し。則ち聖人は其の自然の機に觸れて其の自然の情を鼓すればなり。
現代語訳
物の理と人の情は、自然であるだけです。聖人はその自然なものを掴んで天下を観ます。だから天下の人は聖人の洞察から逃れられません。その自然なものを握って天下を動かします。だから天下の人は聖人に回されていることに気づきません。その規範が矯め正すもののように見えても、人欲の自然の私に背き、天理の自然の公に従っています。だから頑固で固く塞がった人でも、はっと悟って馴れ従わないことはありません。聖人がその自然の機に触れて、その自然の情を鼓するからです。
解説

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